knockin’ on heaven’s door

今日はお葬式に参列。
軽く親戚(ヘンな言い方?)なので、これは誤魔化せないな、と思い。
会社を経営している人だったので、弔辞も3人も読んだし、弔電も読みきれなくてはみ出した分はお焼香のときに
読んでた。指名焼香とかもあったし。
大きな葬儀で、ちょっとどきどきしました。
弔辞はだいたい長寿会の会長さんなんだけど、その他に読む人が居る場合はお友達で結構出世してる人とか。
指名焼香も知り合いに議員とか居れば、たいがいそういう人だよね。
いいな〜!
あたしのときはこういう形式のお葬式じゃないと思うけど、もしこういうのがあれば、カッコイイと思う。
「それでは、指名焼香を賜りたいと思います。○○デザイン代表取締役社長○○様…」(デザイナーさんのお友達
はゼヒともお願いします!)とかね!
えっ!あの人と友達なの!?って参列者の人がびっくりしちゃうな。きっと。
いとこの子どもとか。すごいんだよ、あたし。そのとき知っても遅いんだよ。
あたしは思うんだけど、あたしの最終目標ってのは、きっと富や名声を得ることでも地位を得ることでもないのだ。
そりゃお金はいっぱいあったほうがいいと思うし、名前も知られれば便利なこともたくさんあると思う。
だけどきっとそんなことはくだらないことなんだよ。
(男の人はこんなくだらないことを、一生かけて追い続けるんだよ。カナシイ…。『時々、オトン』だし。)
そしてあたし達は知っている。
追い求め過ぎた結果を。
光のあとには、必ず闇がやってくることを。
あたしが何もかも削がれたときに最後に求めることは、あたしが死んだときに密かにほくそ笑んでる人がいないこと。
「あいつ、死んでよかった。」って心から思う人が居ないこと。
敵もライバルも「居なくなって張り合いがなくなった。」って。そういう戦い方をしたいよ。
お金があっても、有名になっても、あたしの死を喜ぶ人がひとりでも居れば、その瞬間あたしの人生は「負け」に
なるのだ。
みんなに好かれようとは思ってないですよ。ていうか、そんなの不可能じゃん。
だけど、死んだらだいだいのことはチャラになっちゃう気がするんですよ。それでもなお恨まれ続けるのは、よっぽど
業の深い人生なのだと思うの。
そこまでして手に入れる財力と名声に、一体何の価値があるのか。
あたしは、いやだ。
自分のお葬式でヤな笑い方をした人達が参列しているのを、上から見るのは。
本当は、あたしの遺体にすがったりしてめいっぱい泣いてて欲しいのだけど…そこまで愛されるとは思えないので、
「悲しいな。淋しいな。」と思ってくれるのなら。


お葬式に参列するたびに思うことです。