いつか来た道


朝晩、だいぶ涼しくなってきましたね。
こないだ、こんな住宅街で珍しく、ひぐらしが鳴いてた。
山とかではよく聞くけど。
(あと、何年か前に行った、池上本門寺のライブの時にもいっぱい鳴いてて、すごく良い雰囲気だった…。)
アブラゼミの鳴き声は「夏真っ盛り!」って感じで、まぁこれはこれで夏らしくて良いんだけど、夕暮れ時の
ひぐらしの涼しげな声はまた、オツなものです。


そうそう、こないだのBBQのとき、おしゃべりしながらみんな草むしりしてくれた!
子どもたちもお手伝いしてくれた!(ほんとに、とってもいい子ちゃんたち!)
助かりました。ほんとうにどうもありがとう。



きょう、『ゲシュタルトの祈り』という詩を読んだ。
ふしぎなきもちになった。
文章力も語彙力もないので、このきもちはとても書ききれない。
(自分の中にある、また、自分の中から出てくるきもちを、全て完璧に言葉にできるようにするのが、
あたしの目標です。)
以下、その詩です。

 
  私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
  私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
  そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
  もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
  出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。


いつも楽しみに読んでいるサイトがあります。
今週、そのサイトで
 「しばしば、過去の判断について後悔する場合もありますが、
  二者択一の『選ばなかったもう一方』について
  そっちが正解だったのかどうかを確かめる方法は
  いつも、絶対に、ありません。」
とありました。
あたしが似通った時期にこのふたつの文章を目にしたのは、偶然でない気がしました。


選択しなかった道、または選択すらしなかった道を、ときに現在と比べてしまいがちです。
そして「そちらの方が良かったのかも…」とか「今の方が良いな」とか思います。
確かめようが無いのだから、判断のしようがないのに。
(どっちかに振り分けたい、人の心の弱さですね。)
だけど、『ゲシュタルトの祈り』では、通らなかった道も素晴らしいものであった、と。


人との出会いは、素晴らしい。
そして、出会わなかったとしても、それは素晴らしい。
善とか悪とかじゃない、マイノリティとかマジョリティとかでもない。
もっとニュートラルな、ひとのこころ。
本当の解釈は違うのかもしれないけど、あたしはこの詩を読んでそんな事を思いました。


あたしの今歩いている道は、とても素晴らしい道です。
黄金で舗装はされていないけど、小さな花が咲き、ときどき虫も出る。
そしてあたしが歩かなかった道は、決して荒れてなどおらず、
ある道は雨上がりでキラキラと輝き、ある道は子ども達が歌を歌って歩いてる。
どれも、それぞれ素敵な道だったのだ。
なぜなら、それは全て、あたしの道だからです。