そういう期間です

書ける時に、書いとこう。
書けない日が、続くときもあるので。


今度の日曜日はお母さんの百か日の法事です。
それが済むと、ちょっと落ちつくかなぁ。


あたしは宗教とか、死んだ後のこととかってわからない。
お母さんは、きちんと冠婚葬祭を考える人だった。
だからあたしはちゃんと式場でお葬式をあげたし、その後の法事も執り行っているつもりだ。
お母さんは、そうして欲しいと思っているとおもっているから。
それが供養(=故人の満足)になるなら、何でもしてあげたい。


あたしは、はっきり言って宗教とか特定に信じてるのはないし、更に言えばお墓とか法事にもこだわりは無い。
お葬式は式場で大々的にしてくれなくてもいいし、香典とかも要らないし、喪服とか菊じゃなくてもいい。
お花を一輪、棺に供えてくれれば、それでいい。
もちろんお経じゃなくていい。
供養が故人の満足という意味でなら、お経よりもあたしが好きだった曲(『Love so fine』Four King Cousins Ver.
とかとか)をかけて欲しい。コンピつくるので、それかけてください。
戒名も要らない。あたし自身は仏教徒ではないから。
お骨もお墓に収めなくてもいい。思い出の場所(これからできる予定)にまいてくれれば。
死後の法事もお金が掛かるのでしなくていいよ。
いちいち、決められた法事の日に何かしてくれなくても、いつでもどこでもあたしを思い出してくれれば、
それが供養だから。
あたしの話をしてくれれば、それが供養になるから。
形式だけの供養なら、要らない。
思い出してくれる、話題にしてくれる、それだけであたしは嬉しいよ。(それは生きてる今でもそうだよ。)
いちいち墓標に名前なんて彫らなくても、みんなの心に残っているから。
地球に生きたひとつの命、として人間も見るなら、それでいいんじゃないかしら?
死んですぐ忘れられてしまうような人なら、それだけの人生だったってこと。
(偉人は別よ。みんな憶えてくれてて、何百年経ってもお墓にお花を供えてくれる。それだけのことをしたの
だから。)
その人を知っている人も、みんな死んで、思い出も何も無くなって、その人の全てが無くなってしまっても、
あたしは、それでいいと思う。それが自然なのだと思う。
そうやって巡っていくものだと思うから。
忘れること、忘れられることは、こわくない。当たり前のことだから。
いつまでも人々の記憶に留まっていたい人は、大きな仕事をすれば良くて、それは個人の自由だし。
あたしはそんな大きなことなんて出来ないから、いずれ忘れられる大勢の中のひとりだろう。
忘れられていい。小さな人間は、あたしは、そういう存在なんだ。
ただ、あたしの顔や声や体温を知っている人は、ときには思い出してほしい。


それでも。
こうして日記を書いているというのは。
そして、この日記を紙媒体にしようという企みは…!
おとなになれば、ジレンマももう少し減るのだろうと思っていたけど、そうでもないみたいだよ。